http://postal.kiramori.net/view_kakusage.php
これは地域の過疎化によって客が減少したとか諸々の事情で廃止された郵便局や、そこの土地から撤退して別の所で郵便局を続けている郵便局についての一覧です。
前からずっとまとめてみたいとは思っていましたが、全国の分を作っていてはいつまでたっても公開できないので、とりあえず西日本からとなります。
このまま徐々に東に追加していって北海道まで作れると良いですね。
北海道の該当局はおそらくほかの都道府県を全部足した分と同じくらいになると思いますが。
廃止された郵便局については官報の告示を過去へと辿っていけばだいたい揃うのですが、長距離移転した郵便局については細かく調べてみたり現地で聞き込んでみたりしないと分からないものがあったりして、まだまだ網羅できていないところがあります。
まず第一に長距離移転とはどのくらいのものからさすのか、というのは私の尺度でしかないのですが、明らかに立地が辺鄙だとか、過疎化が進行してるとかの理由で移転してるなと思わせるモノを収録しています。集配局がより大きな施設に引っ越すに当たって数キロ単位で移転したとかそういったものは除外しています。まぁ、基本的には格下げで簡易局になった郵便局が中心の一覧です。
ここでの話題は主に、東日本編で収録した長距離移転の例を辿っていきたいと思います。
まずは滋賀県から。
滋賀県長浜市 1994年移転
滋賀県北部の余呉(よご)という町に今でもある郵便局の変遷です。
1994年の移転なのでわりと最近のものになります。(20年以上前ですが・・・)
地図の切り抜きでは大して移動していないようにも見えますが、直線距離は3kmで、まぁ実際に尺を取ってみるとたいしたことがないんですが、移転前の柳ヶ瀬集落に行ってみるとよくもまぁこんな片田舎に郵便局があったなと思わせるほど静かな集落です。
こちらの小さな局舎で1989年まで集配局もやっていたらしい。
洋館風の建築にモルタルの厚化粧という出で立ちでひときわ目立っています。
実際のところこれが旧局舎なのかどうか確証は得てないんですが、かなりそれっぽい建物だし、役場にしては小さいので郵便局で間違いないでしょう。残念ながら集落に人影がないので訊いて確かめることができないのです。どうやら住人もいるようですが、人が見当たりません。
滋賀県でも豪雪地帯なので冬になると雪で埋もれてしまいます。
柳ヶ瀬という集落は今でこそ山間の鄙びた村になっていますが、かつては北陸のメインストリートである北国街道と若狭街道の分岐として関が置かれるほどの重要な土地。そして、その関所の役目をしていたのがこの建物。
正式名称がよくわからないが、建物前には 「明治天皇柳ヶ瀬行在所」 と書かれています。
正門前に丸ポストが置かれていますが、これ、飾りのためにあるんじゃなくて、本当にポストとして稼働しています。それどころか、旧柳ヶ瀬郵便局の前にはポストがないので、この集落のポストはこれ一本ということになります。
こんな山奥の寒村で天皇家の行在所 (※注 「あんざいしょ」 と読みます) があるとは、と驚いたのですが、この建物そのものが柳ヶ瀬郵便局の初代局舎だということなのです。
つまり、巡り巡ってポストは元有った位置に戻ってきたということですね。
幕末から明治維新になって、関所としての機能を失ったころ、郵便制度が開始されると日本各地の庄屋や本陣や寺の人材を郵便局長に仕立て上げて、彼らの自宅の一部を使って郵便局を開業させることで、ニワカに日本各地に誕生した特定郵便局。その走りのようなものがこんな寒村に残っていたと思うと感無量じゃないでしょうか。
というわけで、初代から現在に至るまでの郵便局が残っているちょっと珍しいパターンでした。
◆例2 脇ヶ畑郵便局 ⇒ 彦根大藪郵便局
滋賀県多賀町⇒彦根市 1974年移転
こちらはずいぶんと歴史が古く、しかも長距離移転の例となります。
犬上郡脇ヶ畑村は現在の多賀町の山間部に存在していた地域で、昭和30年まで単独の村として存在していました。1974年は昭和49年なので村が消滅してから19年の間はまだ現地に存在していたということになります。そして、彦根の市街地へ移動したその距離は直線でみても12km近くありますし、市町村自体を跨いで移転している珍しいパターンとなります。
この郵便局が存在していたという保月(ほうづき)という集落には現在定住している住人が一人もいません。それどころか旧村域である保月、杉、五僧の各集落もすべて廃村となっています。
私がここを訪れたのは4年ほど前になりますが、杉の集落はすでにほとんど家屋が残っておらず、保月は寺院のお堂が残っている他は崩れかけた茅葺きの廃屋や、プレハブ小屋のようなものだけけでとても寂しい所となっていました。
郵便局についてはまだ15年ほど前の時点では残っていたらしく、村役場の建物と同居すする形で、内部には当時の書類がまだ残っていたというからなんとも凄い話です。
しかし、今は郵便局がどこに存在していたのかもわからなくなっています。
鈴鹿山脈の西側にあって、標高は600mという高台にある保月集落。
地図では心許ない道路で繋がっていますが、いちおう普通自動車でも通れるようになっています。
この道路はかつては近江国から美濃国へと抜けるための国境越えルートとなっていて、敗れた西軍の島津軍がここを通って薩摩に帰っていったという由緒ある抜け道です。
なぜこんなところに人が多く棲んでいたのかというと、つまりここがかつて主要道路だった頃に、今で言うロードサイドビジネスで栄えた土地だったわけで、加えて、鈴鹿山脈は鉱山資源もあったので労働にも出やすい土地だったのです。山の上としか思えないこの深山幽谷の地に平坦地が存在しているのは、カルデラ台地の特徴で山頂に窪みができており、そこに湧水があったので人が住めたというのが理由のようです。実際に水田開発もできず、農地もろくに確保できない土地に今では想像もつかないほどたくさんの住民が居たわけで、生活が成り立たなくなったとたんに離散が相次いで廃村に至りました。
郵便局が最後にここにあった昭和49年というのは、すでに限界集落を突破した末期状態で、このあと、昭和52年の集団移転で全ての住民が立ち退き、人口はゼロとなりました。
◆例3 途中郵便局 ⇒ 大津伊香立(いかだち)郵便局
滋賀県大津市 1997年移転
大津市の琵琶湖大橋の西岸にあたる堅田(かたた)地区から京都市街へ抜ける道路は途中で「途中峠」というその名もずばりな峠を通過しますが、この峠近くの小さな集落にあった途中郵便局が麓の伊香立まで下りてきたのは1997年のこと。距離にすると4.6km
途中郵便局のまわりはほとんど人口希薄な辺境地帯であったのに集配局としての機能を有していたのはここが京都・若狭・近江を結ぶ主要道の合流地点であったからだと思います。
この建物で1997年までやっていたのが凄い。
なにやら喫茶店のようにも見えるが、ただの個人住宅にも見える。実際のところ何に使われているのかわからないけど中が見てみたい。
建物の裏手に回り込むと正面の洋風モダンな風貌とは打って変わって和風建築。
丸窓なんかがついててわりとオシャレです。
ちなみにこの写真を撮ったのは今から10年近くも前。
当時、途中峠は有料のトンネルとなっていましたが、2010年から無料になったようです。
そうか、あれからもうそんなに経ったのか・・・。
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