2017年3月20日月曜日

長距離の移転をした郵便局 Ⅱ


http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=12&nl=35.16571523845092&el=135.87829828735352

◆ 過疎地から大都市郊外への移転

花脊郵便局 ⇒ 京都静市市原郵便局
京都市左京区 1984移転

京都市左京区というのは想像している以上に広大な面積を持った行政区で、市街になっているのはその面積の一部分に過ぎません。
京都の背後には大原や鞍馬などの山深い里があり、さらにそこから奥へ進むこと1時間。花脊 (はなせ) と呼ばれる小さな山村に至ります。

今は既に当時の局舎が取り壊されて跡形もなくなっているのですが、かつてはこの地区に花脊郵便局という局がありました。
そして1984年(昭和59年)、 直線距離で13キロ離れた静市市原へ移転しました。
13キロと言っても、実際に車を走らせると1時間近くかかる距離です。 途中の道路があまり良くないので行くのは大変で、京都市民もおそらくこんな所へ行くことはまずないと思いますし、実際は多くの京都市民はこういう地区があることすら知らないかも知れません。

昔見たニュースで、左京区の山奥の村にはゴミ収集車がやってこないので、みんな庭や畑でゴミを燃やすしかないというようなことが取り上げられていて、行政に見捨てられた絶望的な地域だという印象を受けました。

1/50000 北小松 昭和21年発行より

花脊郵便局のあったのは花脊村の役場のあった大布施という地区。3差路になっている地点の少し南側です。現地調査でも痕跡がはっきりと見いだせず、道路の拡張で一部敷地が道路になっている可能性もあります。
しかし、昔の地図を見てもそうたいした人口が居たとは思えず、京都市に出るよりとなりの黒田村に行く方が便利だったように思えます。

ここで花脊郵便局に関して何か資料がネット上に転がっていないか見たところ、昭和59年の 国会逓信委員会での答弁にこの郵便局の実情が触れられていました。

実はこの間、京都市の左京区の過疎地域でありますけれども、そこの花脊局という郵便局の問題で、地元の住民の方々が大阪の近畿郵政局へ要請に行ったと。そのときに局側の対応がとにかく廃止をするんだと、その理由も時期も今は言えませんと、こういう全くつっけんどんな態度で話が暗礁に乗り上げたままと
    ここを廃局しますと、一番近いのが黒田局というところで、ここは八キロ離れたところにあります。しかし、ここへ行こうにもバスは通ってないと。バスが通っているところで一番近い郵便局へ行こうと思うと鞍馬局というところで十キロあると、こういう状況のもとで、しかしとにかく理由もよくわからぬ、説明もないままに廃止をするんだと、

花脊地区の人にとっては廃局は寝耳に水の話であったらしく、年金を下ろすために黒田までいくのは大変難儀なことだということで反対運動がおきたとの話です。
ここでの答弁で、郵便局の新規設置に関する基準のようなものに触れられます。

現在、「無集配特定局の設置標準」というものがございまして、それは昭和三十七年に設定したものでございまして、大きく分けて原則が二つございます。第一の原則は郵便区市内地、割合密集している地域におきましては局と局の間が八百メートル以上、享便人口が八千人というのが一つの大原則でございます。二番目の原則としまして、郵便区市外地、比較的田園都市、田園地帯につきましては局と局の間が二キロメートル以上、享便戸数が八百戸以上というのが原則でございます。

局間距離は都市部では800m以上、田園地帯では800戸以上の享便戸数が必要だという。
ところでこの「享便」という言葉が調べても載っていないので何と読むのか、どういう意味なのか厳密には分かりませでした。しかも出てくる文書によって「亨便」と書かれていたりもします。郵政省独自の言葉なのでしょうか。
「亨」は「供」と同じような意味を持つ漢字らしいので 「便に供する」 (便利なように手段を提供する) というような意味で使われているのだと思います。

花脊局の現状でございますが、享便戸数は現在百九十五戸程度でございまして、一日の郵便の取り扱いは一・五通、貯金が二十九件といった状況でございまして、簡易郵便局程度と申しますか、大きな簡易郵便局よりもはるかに少ない取り扱いでございまして、近畿郵政局として地元の住民の理解と御協力が得られるならば廃止したい局の一つに計画しておるところでございますが、ただ、これまでもそうでございますが、特定局を廃止する場合に、単に廃止するといったやり方ではなくて、跡地に簡易郵便局を設置する等のことを住民の御希望に沿ってやってきておりますので、花脊郵便局につきましてもそういった方向で住民の理解と御協力を得ながら今後やってまいりたいと、

なんと花脊郵便局の享便戸数とやらは195戸。郵便が一日に1.5通、貯金が29件とかなり末期的な状況で、これでは確かに営業している経費がもったいないという感じです。
しかし、ここに書かれているような簡易局の開設ということは実際には起きませんでした。

のちに、花脊よりも奥にある、花脊よりもっと小さな集落の久多郵便局が廃止となるわけですが、こちらは簡易局として引き継がれ、現在も営業がされています。


http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=14&nl=34.44275336293504&el=135.6200694659424

◆ 旧村落から新興住宅地への移転

東阪郵便局 ⇒ 千早赤阪小吹郵便局

大阪府南河内郡千早赤阪村 1998年移転

大阪府で唯一の村として残る千早赤阪村の千早赤阪小吹郵便局はもとは東阪簡易郵便局の位置にありました。
直線距離で1.3km、道のりにすると2.6km離れています。
小吹台が造成されてそちらの方に郵便局の設置要望がでたときに、新規で設置せずに旧集落の東阪から郵便局を移転改称させるという方法で設置されました。
これは先に花脊局で触れた特定局新設の基準に照らし合わせてみると、直線距離が2キロもないために新規設置できなかったということがわかります。


東阪簡易郵便局は旧局舎をそのまま利用して開業していますが、その立地のすごさには驚かされます。地図上に郵便局が書かれている位置に来たのに郵便局が見つからないので焦りました。
郵便局は頭上の方にある民家のような建物で、そこまでは歩いて狭い通路を上らないと行けません。大阪府内でもわかりにくさでは上位にあると思います。

http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=15&nl=34.8293769597428&el=135.31758066207888


名塩郵便局 ⇒ 西宮東山台郵便局
兵庫県西宮市 1997年10月26日 移転

移動距離は1キロほど、こちらも千早赤阪小吹と同じような時期の移転で、旧位置には名塩西簡易郵便局が開局しています。


 
http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=13&nl=35.448453874191664&el=134.26239963562014

倉田郵便局 ⇒ 鳥取若葉台郵便局
鳥取県鳥取市 1999年7月5日 移転

移転距離は4.3km、道のりで行くとかなり離れているので同じ郵便局だったというのがわかりにくいです。こちらは普通に新設でもよかったような気がしますが、倉田郵便局の建物が古くなっていたので建て替えついでに新興住宅地へと移動したのでしょう。
ちなみにかつての倉田郵便局は鳥取円通寺簡易郵便局という名前で建物がそのまま使われています。



2017年3月3日金曜日

長距離の移転をした郵便局 Ⅰ

メインサイトの方に 「利用客減により撤退した郵便局」 を公開いたしました。
http://postal.kiramori.net/view_kakusage.php

これは地域の過疎化によって客が減少したとか諸々の事情で廃止された郵便局や、そこの土地から撤退して別の所で郵便局を続けている郵便局についての一覧です。
前からずっとまとめてみたいとは思っていましたが、全国の分を作っていてはいつまでたっても公開できないので、とりあえず西日本からとなります。
このまま徐々に東に追加していって北海道まで作れると良いですね。
北海道の該当局はおそらくほかの都道府県を全部足した分と同じくらいになると思いますが。

廃止された郵便局については官報の告示を過去へと辿っていけばだいたい揃うのですが、長距離移転した郵便局については細かく調べてみたり現地で聞き込んでみたりしないと分からないものがあったりして、まだまだ網羅できていないところがあります。

まず第一に長距離移転とはどのくらいのものからさすのか、というのは私の尺度でしかないのですが、明らかに立地が辺鄙だとか、過疎化が進行してるとかの理由で移転してるなと思わせるモノを収録しています。集配局がより大きな施設に引っ越すに当たって数キロ単位で移転したとかそういったものは除外しています。まぁ、基本的には格下げで簡易局になった郵便局が中心の一覧です。

ここでの話題は主に、東日本編で収録した長距離移転の例を辿っていきたいと思います。
まずは滋賀県から。



http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=14&nl=35.57198181130102&el=136.20492021697999

 ◆例1 柳ケ瀬郵便局 ⇒ 余呉片岡郵便局

滋賀県長浜市 1994年移転

滋賀県北部の余呉(よご)という町に今でもある郵便局の変遷です。
1994年の移転なのでわりと最近のものになります。(20年以上前ですが・・・)
地図の切り抜きでは大して移動していないようにも見えますが、直線距離は3kmで、まぁ実際に尺を取ってみるとたいしたことがないんですが、移転前の柳ヶ瀬集落に行ってみるとよくもまぁこんな片田舎に郵便局があったなと思わせるほど静かな集落です。

こちらの小さな局舎で1989年まで集配局もやっていたらしい。


そして上の建物の向かい側にはかなり年季の入った旧旧局舎が。
洋館風の建築にモルタルの厚化粧という出で立ちでひときわ目立っています。
実際のところこれが旧局舎なのかどうか確証は得てないんですが、かなりそれっぽい建物だし、役場にしては小さいので郵便局で間違いないでしょう。残念ながら集落に人影がないので訊いて確かめることができないのです。どうやら住人もいるようですが、人が見当たりません。



これが郵便局前の風景。柳ヶ瀬のメインストリート。
滋賀県でも豪雪地帯なので冬になると雪で埋もれてしまいます。


郵便局から少し北の方へ歩いていくとこんなお屋敷が。
柳ヶ瀬という集落は今でこそ山間の鄙びた村になっていますが、かつては北陸のメインストリートである北国街道と若狭街道の分岐として関が置かれるほどの重要な土地。そして、その関所の役目をしていたのがこの建物。
正式名称がよくわからないが、建物前には 「明治天皇柳ヶ瀬行在所」 と書かれています。

正門前に丸ポストが置かれていますが、これ、飾りのためにあるんじゃなくて、本当にポストとして稼働しています。それどころか、旧柳ヶ瀬郵便局の前にはポストがないので、この集落のポストはこれ一本ということになります。
こんな山奥の寒村で天皇家の行在所  (※注 「あんざいしょ」 と読みます) があるとは、と驚いたのですが、この建物そのものが柳ヶ瀬郵便局の初代局舎だということなのです。
つまり、巡り巡ってポストは元有った位置に戻ってきたということですね。
幕末から明治維新になって、関所としての機能を失ったころ、郵便制度が開始されると日本各地の庄屋や本陣や寺の人材を郵便局長に仕立て上げて、彼らの自宅の一部を使って郵便局を開業させることで、ニワカに日本各地に誕生した特定郵便局。その走りのようなものがこんな寒村に残っていたと思うと感無量じゃないでしょうか。

というわけで、初代から現在に至るまでの郵便局が残っているちょっと珍しいパターンでした。

http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=13&nl=35.251739252712525&el=136.3341812338257



◆例2 脇ヶ畑郵便局 ⇒ 彦根大藪郵便局

滋賀県多賀町⇒彦根市 1974年移転
こちらはずいぶんと歴史が古く、しかも長距離移転の例となります。
犬上郡脇ヶ畑村は現在の多賀町の山間部に存在していた地域で、昭和30年まで単独の村として存在していました。1974年は昭和49年なので村が消滅してから19年の間はまだ現地に存在していたということになります。そして、彦根の市街地へ移動したその距離は直線でみても12km近くありますし、市町村自体を跨いで移転している珍しいパターンとなります。

この郵便局が存在していたという保月(ほうづき)という集落には現在定住している住人が一人もいません。それどころか旧村域である保月、杉、五僧の各集落もすべて廃村となっています。
私がここを訪れたのは4年ほど前になりますが、杉の集落はすでにほとんど家屋が残っておらず、保月は寺院のお堂が残っている他は崩れかけた茅葺きの廃屋や、プレハブ小屋のようなものだけけでとても寂しい所となっていました。
郵便局についてはまだ15年ほど前の時点では残っていたらしく、村役場の建物と同居すする形で、内部には当時の書類がまだ残っていたというからなんとも凄い話です。
しかし、今は郵便局がどこに存在していたのかもわからなくなっています。
http://maps.gsi.go.jp/#15/35.240186/136.374300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0&d=v
鈴鹿山脈の西側にあって、標高は600mという高台にある保月集落。
地図では心許ない道路で繋がっていますが、いちおう普通自動車でも通れるようになっています。
この道路はかつては近江国から美濃国へと抜けるための国境越えルートとなっていて、敗れた西軍の島津軍がここを通って薩摩に帰っていったという由緒ある抜け道です。
なぜこんなところに人が多く棲んでいたのかというと、つまりここがかつて主要道路だった頃に、今で言うロードサイドビジネスで栄えた土地だったわけで、加えて、鈴鹿山脈は鉱山資源もあったので労働にも出やすい土地だったのです。山の上としか思えないこの深山幽谷の地に平坦地が存在しているのは、カルデラ台地の特徴で山頂に窪みができており、そこに湧水があったので人が住めたというのが理由のようです。実際に水田開発もできず、農地もろくに確保できない土地に今では想像もつかないほどたくさんの住民が居たわけで、生活が成り立たなくなったとたんに離散が相次いで廃村に至りました。
郵便局が最後にここにあった昭和49年というのは、すでに限界集落を突破した末期状態で、このあと、昭和52年の集団移転で全ての住民が立ち退き、人口はゼロとなりました。

http://postal.kiramori.net/routemaker_map.php?id=19&zoom=14&nl=35.15306068734864&el=135.88863412994385


◆例3 途中郵便局 ⇒ 大津伊香立(いかだち)郵便局

滋賀県大津市 1997年移転

大津市の琵琶湖大橋の西岸にあたる堅田(かたた)地区から京都市街へ抜ける道路は途中で「途中峠」というその名もずばりな峠を通過しますが、この峠近くの小さな集落にあった途中郵便局が麓の伊香立まで下りてきたのは1997年のこと。距離にすると4.6km
途中郵便局のまわりはほとんど人口希薄な辺境地帯であったのに集配局としての機能を有していたのはここが京都・若狭・近江を結ぶ主要道の合流地点であったからだと思います。

この建物で1997年までやっていたのが凄い。
なにやら喫茶店のようにも見えるが、ただの個人住宅にも見える。実際のところ何に使われているのかわからないけど中が見てみたい。

建物の裏手に回り込むと正面の洋風モダンな風貌とは打って変わって和風建築。
丸窓なんかがついててわりとオシャレです。

ちなみにこの写真を撮ったのは今から10年近くも前。
当時、途中峠は有料のトンネルとなっていましたが、2010年から無料になったようです。
そうか、あれからもうそんなに経ったのか・・・。